俳句をはじめたら日々に彩りが!

  • 生活に彩りが増えそう
  • ちがう角度から「和歌」や「麻呂」のことを見れそう
  • 歌人(実朝公)の気持ちがわかるかも
  • 言葉の魔法使いに私もなりたい
  • 季語に「実朝忌」というのがあって、運命を感じた
  • ブログのネタになる(よこしますぎる)

こんな理由で、最近俳句をはじめました。

はじめたというか、なんだか楽しそうな「句会」があったので、次の「句会」に参加させていただくことにしたのです。

「句会」ではあらかじめお題が出され、みんなそれに沿って俳句を作ってきます。それをみんなで講評しあうような感じらしいです。

私は中学校で習って以来、俳句をつくってないのですが、さっそくお題に沿って5句考えてきてください、ということになりました(ドキドキ)。

それでさっそく日々に新鮮な彩りがありましたので、ちょっと記します。

アメンボを必死で探した

次のお題が「アメンボ」です。そういえばアメンボって最近見てないなぁ。

いろいろと調べた結果、こんなアメンボのプロフィールが判明しました。

  • 飴のような甘い香りがする(だから「飴ンボ」)
  • 飛べるやつもいる(本当……?)
  • 雨の日の水たまりとかにいる
  • カメムシの仲間(まじか……)
  • めちゃくちゃ軽いのと、足に油でコーティングされた毛がついているので浮ける

雨の日なら会えるかと思って雨の中こやつがいそうな水たまりや小さな池など覗いてみましたが、ついぞ出会えませんでした。

その昔私はアメンボのいかにも虫らしい長すぎる足が生理的に苦手だったので、水の上に浮かんでいるのを見かけたときには嫌悪感を感じていました。(似たようなフォルムのイカダモも嫌い)

でも、いざこうやってアメンボに会おうとすると、あやつらはいつの間にか、街から姿を消していて、あんまり会えない生き物になっていることに気がつきました。

そうなると、なんだか寂しい。

この頃、温暖化により「滑空しかできない。下から上に飛ぶことはできない」という定説をくつがえすかのように元気に天井へと舞い飛ぶGから始まるあの虫を見かけたからか、アメンボなんて可愛いものじゃないかと思います。

人様の居住空間に侵入してくることもなく、ただ慎ましく水面に浮かんでいる、非力で小さなかよわい虫なのに。

アメンボよ、どこにいるのか。

「けり」という言葉のテンション

『夏井いつきの世界一わかりやすい俳句の授業』という本を読んでいたら、「切れ字」というのがあって、「詠嘆」を表すのに使うそう。

「古池や蛙飛びこむ水の音」の「や」のように、言葉のうしろにくっついて、前の言葉を強調したり詠嘆したりします。「や」「かな」「けり」などなど。

3つの切れ字、それぞれ違うニュアンスで詠嘆しているそうなんですが、妙に納得したのは「けり」。「今まで気づいていなかったことにハッと気づいたときの驚きをあらわす」のだそうです。

この「けり」、和歌でもよく見かけます。詠嘆しているだけあって、「〜なのだなぁ。」とか、「〜なことよ。」なんて訳されていますよね。

たぶん訳すときのルール的なものがあるから、「。」で終わっているのはしょうがないけれど、なんだかこの「。」に流されて、感動といってもなんだかしみじみと地味に感動してるんだと思ってました。「ほうほう、なるほどねぇー……」みたいな。

でも「今まで気づいていなかったことにハッと気づいたときの驚き」って、結構感情の波がでかいような気がする。ときには涙さえ出てくるような。

忘れかけてた月を思い出した話

前の会社に勤めていたころ、仕事でいっぱいいっぱいで、大好きな「麻呂」の世界に浸れずにいました。

あまり好きになれない大都会のコンクリートジャングルの底を、下を向きながら帰る日々。自然がないわけではないけれど、圧倒的にビルの数が多い街。だいぶ心はカラッカラ。

この街にはなんにもない、ここにいては「麻呂」の世界からどんどん遠ざかってしまう。

そんなある夜、ふと見上げたら綺麗な満月が空に浮かんでいました。

一度嫌いになってしまった街の嫌なところを探すあまり、私は月の存在をすっかり忘れていました。

「麻呂」の時代から変わらない月は、どんな場所にいても見える。嫌なことを拡大しているばかりでは前に進めないし、どんなところにいても、自分さえここにいれば、「麻呂」の世界にはつながれる。

月にそんなことを言われた気がして、そのときはひそかにビルの陰で泣きました(疲れてたんですね……)。

こんな月は昨日も一昨日も空にあったはずなのに、どうして気がつかなかったんだろう。

これはちょっと大げさな例ですが、こういう感じの気持ちの動きが「けり」に近いんじゃないかなと、思います。

そこには寂しさがある(気がする)

「春は来にけり」とか「夏は来にけり」とか、次の季節がいつのまにか来ていたことに気づいたときにもよく使われますね。

学校時代、楽しい夏休みも終わりかけの頃、いつのまにか夕暮れが早くなっていたり、ツクツクボウシやヒグラシが鳴いていたり、夜道で秋の虫が鳴き始めたりしているとなんだか切なくなりませんでしたか?

自分の送る日常とは関係なく、自然や季節はどんどん移ろっていきます。月はいつでも満ちては欠けるし、季節はいつでもちょっとずつ変わっている。

それに今まで気がつけなかった寂しさというか、「なんで今まで気づけなかったんだろう?」みたいな気持ちが、含まれているような気がします。

もっと言うと季節の移ろいに関する驚きは、「気がついたらこんなに季節が進んでいた」=「また時が経ってしまった」という変わらないことのない世の中への寂しさも含まれているんじゃないかな。

無常観というやつ。あ、前述のアメンボがいつの間にか消えていた件も、「けり」案件かも。

そんなわけで、「けり」と詠嘆している彼らは、思った以上のテンションで感動しているのかもしれない。そんな気がする、というだけで、まだまだ知らない和歌が膨大にあるので、今現在の所感です。

でも、なにげなく読み飛ばし、記号のように受け取っていた「けり」という短い言葉に、結構昔の人の大事な気持ちがこめられていることに気づきけり。

まとめると

俳句や短歌をやると、「けり」な出来事に出会える。忘れかけていたことを思い出したり、気がつかなかったことに突然気がつくかもしれない。

そしてそれはブログや絵など他の創作物にも通じることであり、だからこそクリエーションはすばらしい。

ちなみに、肝心の俳句はまだ一句もできていません(アメンボ見たい……)。

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