麻呂をリスペクトして、季節を愛でようと「七十二候」をのぞいてみましたが、悲しきかな、異常気象によりぴんと来ないものも多くなっています。
八月初旬の「涼風至(すずかぜいたる)」、これは嘘だ。
八月中旬の「寒蟬鳴(ひぐらしなく)」、これは当たっているぞ。こんな二ヶ月も猛暑が続いて、この大地に生きとし生けるすべての生き物が混乱をきわめる中、なんと律儀な虫でしょう。
その声の涼しさもあいまって、ほんと、話のわかるやつだと思います。セミ爆弾にもならないし。あ、アブラゼミがキライなわけではないですよ!
ひぐらしに関しては、みなに愛される虫でありながら、古来より一つの問題がつきまとってきました。「聞きなしが全然ぴんとこない」問題です。
ひぐらしの鳴き声は一般的に、「カナカナカナ……」と聞きなしされています。
まあ、控えめに言ってもそうは聞こえないですよね。私もそう思っていた一人だったのですが、最近思い至ったことがありました。
「かなし」のこと
そう、ひぐらしは「かな」しいのではないかと思ったのです。あ、がっかりしないでください。
「かなし」……和歌や古典文学に出てくる古語です。そもそも私はこの「かなし」という言葉に思い入れがありました。
百人一首サークルに入っていた大学生のころの私は、あまり札が取れませんでしたが、ゆいいつ「海の似合う麻呂」こと鎌倉右大臣、こと源実朝公(頼朝公の次男です)の一首だけはわりあい取れたのです。なぜって好きだから!
世の中は つねにもがもな なぎさ漕ぐ あまのをぶねの つなでかなしも (源実朝)
海辺(たぶん由比ヶ浜)の風景を眺めて、こんな穏やかな日常がもっとずっと続けば良いと思う。
平安の恋の駆け引きの歌や、繊細な季節感の歌にまじって、なんとまっすぐでわかりやすい歌でしょうか。
問題は「かなしも」です。この不思議な響きは、実朝公が好きだった、古い万葉の時代の響きです。
要は「かなしい」ということなんですが、私は実朝公が「悲しい」のだと思いました。
だって実朝公の生涯というのは、平穏とは程遠い、悲しいことのたくさんあるものだったから。
実朝公の「世の中」は、末長い平穏などゆるされるわけがない無常の世でした。(これについてはこの記事内で語りきれないのでまた別の記事にて……)
ですが、古語の「かなし」は「悲し」ではありません。本当は「愛し」なのです。
もちろん「悲しい」という意味も含まれますが、とても愛おしくて切ない、そんな意味も持っています。
愛おしくて切なくて、悲しい。実朝公は悲しいことのたくさんある無常の世の中を、周りの世界を、それでも「愛しい」と思っていたのですね。
私はもうそのことだけで心がいっぱいなのですが、とにかくこの「かなし」という言葉は人生において、それから創作していく上で、大切な気がしているのです。
夏山に 鳴くなる蟬の 木隠れて 秋近しとや 声も惜しまぬ (源実朝)
ふたたび戻ってひぐらしのこと
そう、ひぐらしの聞きなしは「かなかな」です。
「愛」と書いて「かな」と読む、これは琉球語でもあります。大河ドラマ「西郷どん」で西郷どんの奥さんが「愛かな(あいかな)」と呼ばれていたのも記憶に新しいですね。
愛しい人のことを「かな」と言う。こちらではとうに消えてしまったいにしえの言葉、「かなし」が少し形を変えて遠い琉球の地に残っているというのは、不思議です。
たくさんの言葉が生まれては消え、生まれては消えていく中で、こんなことは奇跡のようにも思えます。
ひぐらしにしてみても、あの鳴き声はたしかに、儚い人(セミ)生の終わりに、愛しい人(セミ)を思い、あふれ出た魂の叫びなのですから、「愛(かな)愛(かな)」というのは、理にかなっていると思うのです。
ひぐらしの気持ちになってみてください。長い長い地中暮らしのあと、地上でのあまりに短い生命。その景色はどんなに鮮やかにセミの目に映るでしょうか(色とかわかるのかな)。
まだ見ぬ愛しい人(セミ)、それから世界の美しさと、生きている喜び……すぐに失われてしまうものだからこそ、愛おしい。
ひぐらしの鳴き声を「セミリンガル」にかけたなら、きっと「愛し(かなし)」と画面に出ることでしょう。たとえ人間にそうは聞こえなくとも。
そう考えると、最初にこの聞きなしを考えた人はすごいですね。世の中の人に「全然そんな風に聞こえねーぞ!」などと罵られたとしても、胸を張って良いと思います。
この聞きなしの作者は短い夏のひぐらしの思いに我が身を重ねたのかもしれないし、もしくはひぐらし達の存在自体が「愛し」と思ったのかもしれません。
ああ、ひぐらしは「愛しい」んだ。一度そう思うと、胸に来るものがあります。
夏の夕方、近所の小さな山のような公園からは、ひぐらしの大合唱が聞こえて来ます。まるで山全体が「愛(かな)愛(かな)」と叫んでいるかのよう。
夕焼け空のあのくれないも、ほんの刹那の美しさ。 夏の夕方のあの「愛しさ」だけは、どんな異常気象になっても、残っていてほしいと思います。
いえ、まさか変わるはずがないと思っていた日本の夏の風景が、いつまでも続くものではないと昨今の異常気象で知ったからこそ、よけいに「愛しい」のかもしれません……。
当稿はあくまで人間視点で一方的に推量したものになります。 命短き一般の蟬達に、ご迷惑のかからぬよう……。
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