元祖ミニマリスト・千利休さんの「一輪の朝顔」

信長時代に鍛えられたリアクション芸を披露する秀吉

こんな話がありました。

秀吉が千利休に朝顔見にきてねって言われて、たくさんの朝顔を見ながらお茶を楽しもうと思って行ったら利休が全部刈り取ってた。と思ったら茶室にたった一輪咲いていたよ。という事件です。一輪だからこそ美しかったそうなのです。

最初、おそれおおくも、こう思いました。

「ひどくない……?」

私はこの話を初めて知ったころ、千利休の提唱する「わびさび」を聞いたことあるけどよくわからん、状態でした。

それで、なんとなく切れ味するどい美学があるらしいのはわかったが、「せやかて全部刈ることないやん、他の朝顔かわいそうやん」「わくわくしながら見に行った秀吉もかわいそう」と思っていました。

今改めて調べたらこの朝顔の一件、すなおに秀吉さんは「すげー!」ってなったらしいですね。清原なつのさんの『千利休』ではちょっと話が変わっていて、朝顔見れなかった秀吉が「げきおこ」してます。

華麗過剰を喜ぶわっちを田舎もんとあざ笑うか。お前の極限まで削ぎ取れる美意識がにくたらしい。

そのときの秀吉さんのお言葉 清原なつのさんの『千利休』より

秀吉は、黄金の茶室とか作ってましたし、派手な感じなのが好きなんですよね。黄金の茶室自体は、千利休も面白がってたみたいですが……。

この「げきおこ」の秀吉が印象に残っていたため、長年この件で利休は怒られたんだと思っていました。ばっさりと余計なものを断ち切った美意識は素晴らしいものかもしれないけど、それだけじゃあ、割り切れないこともあるんじゃないのかい?人の情ってやつはさあ……。

この朝顔の一件は本当は良い話でしたが、結局秀吉と利休は「人間性の違い」、あとバンドで言うところの「音楽性の違い」みたいな感じですれ違いを重ね、いよいよ秀吉が本当に「げきおこぷんぷん丸」になり、利休は切腹を命じられてしまうのでした。

こういう切れ味するどい美学は、息をのむほど美しいものを生み出すかもしれないけれど、疲れていたり、心が弱っている時にはちょっと辛いかもしれない。

六百年前、桜を全部、切りました。春より秋を選んだお寺です。

JR東海 「そうだ 京都、行こう」1997年盛秋 東福寺

こんなCMがありました。一つの季節を大事にするために、ほかの季節のものを排除する。これもまた潔いのかもしれませんが、「何も、全部切ることないじゃん!そんなに割り切れるもの…?」と、思っていました。

割り切れない私は、大好きなもの以外のそこそこ好きなものも、そんなに好きじゃないものももったいないから所有しつづけ、いつしか時間も部屋もいっぱいいっぱいに。だんだんとそれを重荷に思うようになって、3年ほど前からずるずると断捨離をしています(全然進まない)。

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断捨離をしていて、朝顔の話を思い出した

最近、本の断捨離をしました。本が好き、というより本に憧れている、に近い私は、本当はほとんどが積ん読で大して読めていないのに、部屋のスペースの多くを占領していた本を手放せずにいました。

会社を辞めてさらに断捨離を進め、本棚3個分にも収まりきらず部屋に散乱していた本を、本棚2個分までなんとか減らしました。

すると、取捨選択を通り抜けて本棚に残った本たちに、以前よりももっと強い愛着を感じていることに気がつきました。

あ、利休の朝顔の話って、こういうことか!と急に腑に落ちたのです。

「一輪の朝顔」「一本の桜」に集中すると……

どういうわけだろう。今年は一本の桜とじっと向き合う春にしたかった。

またまたJR東海 「そうだ 京都、行こう」2011年春 東寺

というCMがありましたが、その気持ちが今はとてもよくわかります。桜並木や桜に囲まれた公園を見るのもいいけれど、「桜がありすぎて麻痺してきちゃったよw」って人は、一本の桜とゆっくり向き合う春が必要なのかもしれない。

初めて詩集を買った時、その余白の多さにびっくりしました。え、ここすごいスペース空いてるけど、挿絵とか入れなくていい……?と、イラスト描いてる人間のさがで思ってしまうほど。でもきっと、あの余白が心地良かったんですね。

なんやかやで、私たちは、毎日たくさんの言葉や文字に触れています。無意識で情報を受け取り、選びとるうちに、いつのまにか疲れてしまう。でも詩集や歌集を開いているときは、目の前にある、ほんのすこしの言葉に集中すれば良い。

いつも多大な情報を読み流しているせいで、駆け足になりがちな自分の目を制して、ゆっくりゆっくり文字を頭に入れていきます。すると……文字と文字のすきまからミニマムな世界がでてきたり……文字としてしか認識していなかったフォントが話しかけてきたり……するかも、しれない。

それは、たくさんの物や情報の中では味わえない、とっても穏やかで心地良い時間です。

今思えば、利休も秀吉にそんなことを伝えたかったのでしょうかね。極限まで無駄を削ぎ落とすことは、ともすると冷たく感じますが、削ぎ落として残ったものとじっくり向き合うため、と考えれば納得できます。

秀吉は天下人として、抱えているものが多かったでしょうから、

利休さん

一旦すべてを茶室の外に置いて、今は一輪の朝顔をゆっくり愛でませんか?

……という、利休の優しさだったのかもなぁ。

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