人食い虎は、なんと袁傪の旧友、李徴だったのです。
李徴は「己がなぜ虎になってしまったのか」を悲しそうに語り始めます……。
えっ!人が虎に!?なんちゅう話や……。
国語の授業でおなじみの『山月記』。なんと、高校の国語教科書にもっとも多く採用された作品なのだとか。
プライド高すぎた主人公が、「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」(テストのために丸覚えした単語)のために虎になってしまうという、あまりにも衝撃的すぎるお話。
中学高校の国語の授業で習った教材がほとんど思い出せない残念な記憶力の私ですが、この『山月記』だけは記憶に残っています。
とても短い作品なのにね。作者のこともよく知らないままですが、悲しげな虎が夜空に向かって吠えるイメージはずっと記憶の片隅に残っています。
みなさんもけっこう「記憶に残ってるよー!」という方が多いのではないのでしょうか。
全体的に漢文っぽい雰囲気の格調高い文章で、読むのが簡単な作品というわけではないのですが……妙に思春期真っ只中の十代の心を掴む、不思議とキャッチーな作品ですよね。
その作者である中島敦の特別展に行ってまいりました!
ん?こんな顔だったっけ……?
記憶だともっと「真面目で堅物」そうな感じ……(※勝手なイメージです)
そうそう!教科書に載っていたのは、こんな写真でした。
前髪でだいぶ印象変わりますねぇ……!(アシメな髪型の方がおしゃれですねぇ)
イメージと違う!お茶目な「トン先生」
上記の免許証に載ってそうな真顔の「前髪パッツン写真」と、『山月記』の格調高すぎる文体のイメージから、ものすごーくお堅い人なんだろうと思ってたんです。
こう、冗談とか言わなそうな、ね……。
まるで『山月記』主人公李徴のように、高潔で、博学で、天才肌の人なのだろうと。
頭が良くて天才肌なのは、李徴さんそっくりです。漢文の学者の家に生まれたエリートで、東大の文学部へ進んだ中島敦。
でも、孤高で人を寄せ付けなかった李徴とはちがって、けっこう愛されキャラだったみたいです。
大学卒業後、彼は横浜高等女学校(今の横浜学園高等学校)の先生になるんですが、よく冗談を言ったり、授業が楽しいと評判の人気の先生だったようです。
アシメな前髪をかきあげる仕草が独特だったり、ふしぎな着こなし(あえてなのか、服装に無頓着なのか……)を真似する生徒もいた模様。
「中島ファン」までいたっていう。ちょっとわかります。ひそかに女子生徒のファンがいるタイプの先生(笑)
職場では「敦」という名前から「トンちゃん」「トン先生」なんて親しみをこめて呼ばれていたそう。
ではそんなトン先生の、家庭生活は……?
長男の桓くんに贈った絵本もたくさん展示してあって、良いお父さんぶりが伝わってきました。
その後喘息の悪化のために教員を辞めて南方のパラオに単身療養にいくのですが、そこでも奥さんや桓くん、次男の格くんとこまめに手紙のやりとりをしていたようです。
李徴のように博識で頭が良くて、天才。
だけどプライド高すぎて人を突き放したり見下すようなタイプではなくて、生徒や子供にもわかりやすく教えるのが上手な、やさしい先生だったんですね。
さらに、多趣味でアクティブな旅行好き!うーん……だいぶイメージ、くつがえされました。
そんなトン先生、あるとき和歌にはまっていたらしく、「和歌(うた)でない歌」という和歌のシリーズを残しています。
ゴッホや李白やモーツァルトやパスカルなど、古今東西の偉人をテーマにして遊ぶように歌を詠んだシリーズの最後の一首。
私も現在、同じような年齢なので、なんだか印象に残りました。
歌を通していろんな偉人の魂と戯れたアラサーのトン先生の魂は、めぐりめぐって一体どこへ行ったのでしょうか……?
ひょっとしたら「中島敦展」の会場をただよっていたかも……!?
人生は、何事かを成すにはあまりに短い
喘息を治すために行った南の島・パラオでは現地の病気に悩まされたり、喘息がかえってひどくなったり……
実はパラオに行く前、中島敦は長年の作家の夢を叶えるために、それまでに執筆してきた作品を作家の深田久弥先生に「見てください!」と渡していたのでした(その中に『山月記』も!)。
それについて何の音沙汰もなく、現地の仕事には失望し、体もどんどん衰弱していく日々……。
失意のあまり奥さんに「僕が死んだら原稿を深田先生から返してもらって、息子が文学好きの大人になったら渡してほしい」なんて手紙まで書いてしまった中島敦でしたが
長年の夢がついに叶った!よかったね、トン先生……!!(泣)
ずっと作家になりたくて、教師という仕事をしながら、家族も持ちながら、ときには病気と闘いながら、なんとか時間をつくりだして執筆をつづけた中島敦。
その姿に、共感する人はきっと多いはず。
でも、残念なことに、悪化してしまった喘息は良くならず……夢がついに結実した、本当にこれからというこのタイミングで、中島敦の命は尽きようとしていました。
最期の言葉は、「書きたい、書きたい」
弱っていく体とは裏腹に、雑誌の掲載を機に芥川賞にノミネートされたり、作品集の出版が決まったりと、中島敦はどんどん名を上げていきます。
頭の中にたくさんアイディアはあって、世の中にもやっと認められて、長年の夢が叶って……
それなのに、残された時間はあまりにも少なかった。
最期の言葉は、「書きたい、書きたい」「自分の頭の中のものを、全部吐き出してしまいたい」だったそうです。
たとえ、今、己が頭の中で、どんな優れた詩を作ったにしたところで、どういう手段で発表できよう。
まして、己の頭は日毎に虎に近づいて行く。どうすればいいのだ。
己の空費された過去は?己は堪らなくなる。
そういう時、己は、向うの山の頂の巌に上り、空谷に向かって吼える。
『山月記』にこんな文章がありました。
頭の中には言葉があふれ、作品を生み出したいという気持ちを置き去りにして、自分はどんどん虎になっていく……それを嘆いている李徴の姿は、晩年の中島敦に重なります。
もちろん、中島敦が『山月記』を記した時には、きっと本人も三十三歳という若さで亡くなるとは思っていなかったでしょうけど。
もともと病弱で、第二次世界大戦に向かっていく世の中を生きていたから、ずっとずっと何かに追われるような切迫感があったのではないかと思います。
十代の時に教科書でこの作品に触れて、人が虎になるというぶっとんだ話ながらも、妙に虎の悲しい姿が記憶に残るのは……この虎の咆哮が、中島敦の魂の叫びに他ならなかったから。
漢文風の文章はちょっと難しいし、とっつきづらいところもある。それでも、その魂の叫びが伝わってくるから、『山月記』を大人になっても忘れられない人が多いのかな、と思いました。
トン先生の歌に勇気づけられる
以前、心の炎の加減はむずかしい、という記事を書きました。
いつもいつも、この気まぐれな心の炎に振り回されては、くすぶって思うように絵やブログの記事を作れないこともたくさんあります。
頭の中では超すばらしいイメージだったのに、いざ作り出してみると「こんなはずじゃあああ!」ってなって発狂したりね(李徴じゃないけど)
でも、こういう、短い生涯の間で生きたいともがきながら、強い炎を燃え上がらせた人を知ったら、「そんなこと言ってられん」ってなりました。
トン先生がね、上述の「和歌でない歌」でこんなこと歌ってるんですよ。
拙くても、私のつくったものは、他のだれでもない、大切な私の作品なんだ。
今回、漢詩のイメージが強かった中島敦の和歌を知ることができたのは面白かったです。
格調高くてとっても硬派な印象の『山月記』とはまた違う一面というか。
どこか遊ぶような……どちらかと言うと、ひょうひょうとしてて、自然体で、周りの人に愛された「トン先生」を彷彿させます。
ある時は遊ぶような軽い心地で歌ってもいい。
ある時は身を削るように苦しみながらでもいい。
どんなにつたなくても、つまづいても、自分を表現できるのは最高だ!
そんなふうに、励まされたような気がしました。
我が歌は短冊に書く歌ならず街を往きつゝメモに書く歌
こんな一首も。良いですね!我がブログもそんな感じで……。
さいごに
今回の展覧会、平日に行ったにも関わらず、いろんな年代のたくさんの人が展覧会に来ていました。
最近人気の文豪の漫画にも主人公として出てくるみたいですね。
中島敦人気、おそるべし!
中島敦の作品は、トン先生が亡くなってからどんどん評価されて、現代に至るまでいろんな作品に影響を与えているんだそうです。
めぐりめぐったトン先生の魂は、ひょっとしたら後世のクリエイターたちのところにやってきて、一緒に遊んでるのかもしれません。
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